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       ● クアラルンプル国立心臓病センター留学記 ●

 

 マレーシアの首都クアラルンプル。多民族が平和的に共存する都市らしく、多彩な文化が混ざり合ったことがかもし出す賑やかな雰囲気が印象的です。発展途上とはいえ、ペトロナスツインタワーをはじめとする超高層ビルやモノレール、地下鉄など、インフラの整備はかなり進んでおり、訪れる人たちはみな驚いていました。そんな活気あふれる都市のほぼ真ん中に位置する、クアラルンプル国立心臓病センター(Institut Jantung Negara、以下IJN)胸部心臓外科に、シニアレジデントとして2004年5月より2006年8月まで在籍しました。                                              

クアラルンプルにそびえ立つ、ペトロナスツインタワー

   
IJN最後のGrand Roundにて

 最初の半年は、英語でのコミュニケーションも素人で、ただひたすら懸命に目の前のdutyをこなすだけでした。そのうちdutyに慣れ、consultantとも気軽に症例について討論したり、スタッフナースと雑談したりできるようになると、本当に最高のMalaysian lifeを満喫しました。最後の6ヶ月間は、Consultant surgeonの一人(Dato’ Dr Venugopal)より手術症例の約半数を任され、手術室に外科医は私ひとりという環境が連日続きました。当初IJN fellowshipプログラムは2年で完結する予定であったことと、Head Consultant surgeonのDato’ Dr Azhari Yakubから “Satoruは次のステップに進め”の言葉をいただき、2006年8月に帰国の意志を固めました。

 もちろん当時の手術と現在の手術とでは、さまざまな違いがあるものの、間違いなくこのIJNでの経験が、現在の私の心臓手術の礎となっています。これから留学を検討されている若い先生方も多いと思うので、私の留学生活を紹介したいと思います。


  

1.クアラルンプル国立心臓病センター

 
 
正面ゲートにて



ついで人工心肺のカニュレーションが完了するころにconsultantがOTに入室します。consultantが術者の位置にくれば、自分は前立ちの位置に移り、またある時はそのまま執刀を続けさせていただきました。consultantによっては人工心肺からの離脱を待たずに退室する先生もおられましたが、たいていは人工心肺から離脱後にconsultantが退室され、その後は一人で閉胸します。閉胸時、SAはランチか、はたまたイスラムのお祈りのため、しばしばOTから消えてしまいます。手術と手術の合間に、翌日手術予定の手術説明(Informed Consent)を行い、さらに新たに入院してくる患者さんたちの診察や内服処方に回ります。チャカチャカっとランチを済ませてまたOTへ。その繰り返しでした。

 

 私の所属していた胸部心臓外科は、当時8人のconsultant surgeon(日本の外科部長にあたる)がそれぞれ1〜2人のレジストラ(現地ではclinical specialistというのが正式名称だったのですが、みんなレジストラと呼んでいました。)とともにチームを構成し診療していました。朝は、interesting case meeting, mortality meeting, pediatric echo meeting, Journal club, ICU grand round, teaching roundと、一週間連日なんだかのmeetingがあり、その後コンサルタントとward round(病棟回診)。そして手術室(Operating Theatre:通称OT)に入ります。手術はたいていレジストラ一人で開始し、CABGであればIMAを剥離し、その間surgical assistant(SA)かジュニアレジストラがSVGを採取。


外科病棟のナースたち

閉胸直後、麻酔科のDr.と談笑

Adult ICUのみならずPediatric ICUも担当するわけですので、一晩中行ったり来たりで、慣れるまでは大変でした。私はジュニアレジストラたちからよく“Oni-Gunso ! (鬼軍曹)”と揶揄されていました。理由はよくわかりませんが、術後管理に問題があると、よく厳しく怒っていたからだと思います。

 

レジストラ仲間

執刀のチャンスはたいてい手術直前か前日の術後に言い渡されます。いつでも自分で完遂できるように準備しておく必要がありました。8人のconsultantが存在するということは、カニュレーションの様式からあらゆる吻合手順まで、ありとあらゆる作法が8通り存在するということですから、3カ月ごと上司のconsultantが変わるたびに、一からそれぞれの作法を頭にたたきこまなければなりませんでした。
術後は、術後担当のICU dutyと言われるレジストラ、夕方から1st On callレジストラ(夕方から出勤)にすべての管理が任されました。1st On call は1〜2か月に一度回ってきて、ある一週間を担当します。その一週間は夕方出勤し翌日meeting終了まで、ICU管理の責任を背負います。

SAと手術。ConsultantのDato’ Venuが
時々OTに来られ、麻酔科側からチェック。

 
 
 

 

 
 

2. クアラルンプルでの生活

 

病院から車で5分、歩いて20分くらいのところにVistanaコンドミニアムというアパートがあり、その16階の一室を年契約し滞在しました。住み心地は快適とまではいかないものの、大きな問題はありません。3階に共有のプール、筋トレのジム、バーが完備され、早く帰れた時には、当時小学校に入学したばかりの長男とプールでよく遊びました。留学前には長男といっしょに過ごす時間があまり取れなかったのですが、クアラルンプルではその時間が格段に増しました。小学校に関しては、日本人学校がかなり離れていたため、地元のローカルインターナショナルスクールに入学することになりました。幸運なことにスクールバスがコンドミニアムの玄関まで迎えに来てくれました。入学初日の朝は、泣きながら乗車していましたが、翌朝には乗車したとたんインド系の友達とハイタッチ!本当に子供の適応能力には驚かされました。 3階のバーは、日本人滞在者のたまり場となっていて、日本からの訪問客をみんなでもてなす場ともなりました。またコンドミニアムの前には屋台のような中華食堂があり、本当においしい中華のB級グルメを堪能しました。

  
  長男とゲンティンハイランドにて
 
 

東大川島先生(中央)や関西医大の学生さんたち(右側)
コンド前の中華屋台にて。

 

チャイナタウンマーケットで買い物

On call dutyのない日曜日は、チャイナタウンのマーケットにでかけて、安い野菜や果物を調達。さらに安い音楽CDや日本で流行っているドラマのDVDなどの買い物を楽しみました。B級グルメがかなりおいしくて、プローンミーと呼ばれるエビ風味のラーメンや中華風土鍋料理がやみつきになってしまいました。

 
 

3. 学会活動

 

 マレーシア国内の学会のみならず、タイ、アルゼンチンなどで学会発表の機会を得ました。それらの学会で日本から参加された先生方や、普段は教科書でしか知り得ない高名な先生方と話をするチャンスがありました。海外の学会では学会出席者をもてなすイベントが豊富で、私の家族も旅行気分でリラックスできたようです。

あのカーペンター先生と!
右側は関西医大岡田隆之先生

学会側から用意された民族衣装(タイ、チェンマイにて)

 
 
 

4. 帰国

 

日本を発つとき、多くの先生から言われたことは、“心臓外科後進国に行って、何を勉強するのか?”とか“マレーシアに留学しても箔がつかない”とか言われたものです。しかし帰国時、私は2年間の修練がかけがえのないものであったことを確信していました。冠動脈グラフトをつなぐ、弁を置換する、形成する、パッチを充てるなど、心臓外科手技の基本手技を、本当に繰り返し繰り返し反復し、Pitfallを思い知り、多種の先天性心疾患に触れ、そして海外に多くのレジストラ仲間ができました。それらすべてが自分の貴重な財産となりました。日本のトップリーダーである榊原記念の高梨先生や、岡山大学の佐野教授などにも、クアラルンプルで私のことを覚えていただきました。これから留学を考えられている若い先生方に、少しでも以上のエピソードがお役に立てれば幸いです。

  

   帰国の際に立ち寄ったモルディブにて